「それでは、薔薇さま方。お先にお暇させていただきますね」

あらかじめ用意しておいたようなせりふで、由乃は薔薇の館の執務室にいる全員に聞こえるように声をかけ、立ち上がる。
恭華ともう一人、祐巳を除いたこの部屋にいる全員が由乃の言葉の意味を理解したようだ。
首をかしげ、すぐ隣に立っている友人・島津由乃のことを見上げるように祐巳は尋ねた。

「あれ、由乃さんどこいくの?」

きょとんとした本当にどこに行くのか心当たりが思いつかない顔をしながらたずねる祐巳の姿を見て、問われた本人はガックリと力が抜けるような思いで答えた。

「ちょっとよしてよ、祐巳さんさっき話したでしょ、令ちゃ――――じゃなかった、お姉さまのところよ、部活見学」

もう、といわんばかりに腰に手を当て祐巳に答えている由乃の姿はさながら呆れているのか怒っているのか。これを聞いてきたのが、恭華であれば由乃ももっと素直に答えられただろう。
年上というのもあるし、何より祐巳と違い先ほど話しておいていないのだ、分からなくて当然である。
また、この部屋にいるほかのメンバーはといえば、わざわざ由乃の行き先など尋ねたりしない。こうったときに先に上がるのは、病院にいくときか令のところへ言って部活見学をするかのどちらかしかない。
もっとも、病院にいく場合は授業中に抜けたり、そもそも学校に来なかったりするほうが多い。
健康になった今なら、行き先はひとつである。状況を考慮することなく理解してくれる人達が大半なのだ、ありがたいことに。

「あ、そういえばそうだった」

「もーやめてよ、祐巳さん。ボケるのには早過ぎだよ」

「あ、あははは…………ごめん、由乃さん」

苦い愛想笑いを浮かべている友人のことを見ると思わず呆れそうになってしまう由乃。
軽く天然の入っている言動は彼女の長所でもあり、短所でもある。
殺伐としたときにはまるでマスコットキャラのように場を和ませてくれるが、こうしたたわいのない会話の中でそれをやられると、由乃としても反応に困る。
まだ短い付き合いだ、怒ったり呆れたようなため息を吐いたらどうなるの予想もつかない。
そのため、ちょっと内側に溜め込むようになってしまうが、本当に申し訳なさそうに謝りだす祐巳の姿を見ると、由乃も色々と分析してきた思考を放棄して、こう思った。

(まあ、いいか…………まるで知らない仲じゃないんだし)

とまあ、そんな一幕を終えてから薔薇の館から退出しようと軽く会釈をして出ようとするといきなり呼び止められた。

「ちょっと待って由乃ちゃん。面白そうだから私も行くわ」

と声を掛けたのは、由乃にとってもっとも目の敵にしている天敵であり、彼女にとっては色々と突っかかってくるそんな由乃のことが面白くもあり、可愛くもあってしかたのない黄薔薇様。
彼女は本当に楽しそうに笑いながら由乃のことを見ている。それはそれはもう楽しくて仕方のないことを思いついたときと、物珍しいものを見つけたときに思わず出てしまう彼女の癖である。
由乃はというと、呼び止められた瞬間に体を一瞬硬直させ肩を小さく震えさせた。
壮絶な言い争いのバトルが繰り広げられるのか、思わず祐巳は生唾を飲み込みながら固唾を見守る。ほかの面々はというと、聖は恭華の事をかまっているのかちらりと見るだけ、蓉子と祥子もいつものことと割り切っているのか見ることもなく、志摩子にいたっては――――なぜか聖のそばで佇んでいた。

「あら、黄薔薇。様珍しいですね、お姉さまの部活動を見学なさろうとするなんて」

以外にも静かな立ち上がりに、祐巳はほっとしたような残念なような複雑に混ざり合った表情をしていた。ただ、彼女は見逃していたというか、座っているために見えないでいた。
由乃が引きつったような笑顔を江利子に向けていたことを。

「あら、令は私の妹ですもの。別に見学に行くくらいおかしいことではないでしょ、由乃ちゃん」

当たり前といえば当たり前の回答を江利子は由乃に返す。
ただ、彼女の顔には挑発とも不敵とも取れるような笑みが浮かんでいる。
江利子と表情を見て、思わず由乃は『私のほうが上の立場ですもの』とでも受け取ったのか、面白くなさそうに頬を膨らませた。その光景を見て江利子は内心楽しくて楽しくてたまらない。江利子にとって由乃は本気で向かってきてくれる数少ない相手なのだ。

(そういう意味では、令を妹にしたのは正解よね)

下級生たちには薔薇様として遠慮がちに接しられ、同級生も聖と蓉子以外下級生と同じように何処か壁のようなものがある。かと言って友人である聖・蓉子の二人の場合、うまくあしらわれるか面倒くさがって放置されるかの場合が多い。
だからこそ、これだけ純粋に闘士をむき出しにして挑んでくれる由乃のことが可愛くて可愛くてしかないのだ、鳥居江利子にとっては。

もちろん、江利子が内心では由乃という存在に感謝、また可愛く思っているなど露知らず、次に発せられた言葉で、由乃は一気に窮地に追い詰められる。

「それにね、例に恭華さんのことを紹介するいい機会だと思うのよ」

あくまでいつもどおりの少し済ました顔で一度高町恭華のほうを見てから、満面のしてやったり顔で由乃のことを見る江利子。
もう、グウの音も出ないほどのフィニッシュブローである。
何故、この一言がそれほど強力なのか。もちろんこの場にいるのが由乃と江利子、恭華だけならばどうということもない発言だろう。
否、3人だけであったなら恭華が遠慮するような一言を言って江利子が逆に窮地に立たされたかもしれない。
では、何故…………その答えは、すぐに訪れた。

「あら、黄薔薇様。いいわね、それ」

「あと会ってないの令だけか。うん、グッドタイミングだね」

事務作業をしていた蓉子が聞くとなしに聞いていて顔を上げる。
また、肝心要の恭華に抱きついたりあれこれ話しをしていた聖もまた、感心したように声を上げた。
最上級生であり、リリアン女学園でもっとも権力のある二人を味方にした江利子。
当たり前でしょ、とばかりに勝ち誇るような表情もせず換わることなく由乃のことを楽しげに観察している。

(祐巳さん、志摩子さんはダメ――――――うー、恭華様はよく分からないから。じゃあ)

一方由乃は必死に考えをめぐらせる。自分の味方をしてくれる人物を識別し、また己が勝つためにはどうアプローチをするべきかも含めて声を掛けねばならない。
祐巳、志摩子両名ともに、三薔薇様を押さえ込むだけの発言力もなければ抵抗をするようにも思えなかった。
話の中心である恭華にいたってはまだ会ったばかりで人となりも分からずどのように攻めるべきかも皆目見当もつかない。では、降参を除いた残る選択肢は――――――――――ただ一つであった。

「紅薔薇のつぼみ様、まだお仕事もなさっておりますし、姉のところに見学に行くのは無理ですよね」

どうか味方してくれ、念力を掛けながら由乃は一縷の望みを託した。
時期三薔薇様候補のつぼみであり、あの小笠原グループの一人娘、小笠原祥子にのぞみを掛ける由乃。

自分と同じく気の強いところがある彼女ならもしかしてこの追い詰められた状況を打開してくれるのでは?
少々浅はかともいえる願いを託し、彼女のことを見る。

「そうね。お姉さままだ事務処理が残っております、またの機会にされてはいかがですか?」

「あら、祥子。今緊急のものは特にないでしょ?なら、あなたも一緒にどう?」

「お言葉ですがお姉さま。早く済ませられる事でしたら、先に済ませておいたほうがよいのではありませんか」

良し、と由乃は内心ガッツポーズをしていた。最後の望みであり、だがあまり期待できない状況でったにもかかわらず、追い風が吹いている。
小笠原祥子は自分の姉である水野蓉子には頭が上がらない。祥子の絶対的主導権を蓉子が握っているためだ。そうでなければ気難しく天邪鬼な彼女の姉などしてはいられない。
だというのに、どうだろうこの状況は。
生来の潔癖症のためか、はたまた会長職をしている人間を間近に見ているためか、祥子は生徒会の事務処理が残っていることを材料にして反論をしていた。

(いける、いけるわ――――!!)

声にこそ出さないが、目の前に見え隠れし始めた勝機に、由乃は思わず酔いしれた。
だが、その酔いもつかの間――――――――蓉子は残酷な結末を由乃に与えることになる。

「そうね、祥子の言うことはもっともだわ。でも、まだ転校して日の浅い恭華さんに私たちの学園を理解していただくことも大切でなくて」

薄っすらと浮かぶ蓉子の笑み。佇まいから微かに妖艶な色香を含んでいるように見える。
一瞬、祥子は熱に浮かされたような瞳で姉である蓉子に視線を送る。

「ですが――――お姉さま」

「それに、剣道部は我が校でもっとも活気のある部活動よね」

「え、ええ」

もはや、祥子の返す言葉に先ほどのような力強さは残っていない。それどころか、蓉子の言葉に徐々に抗えなくなっている。
マズイ。由乃は親指のつめを噛みたくなる思いで、彼女たちの様子を見守るほかない。
だが、彼女の重いとは裏腹に、蓉子が決定的な言葉を使った。

「祥子、あなたもきなさい」

「…………はい、お姉さま」

どうにもならない魔法の言葉。祥子の意思は折られ、姉の蓉子の言葉に従う。
理不尽なことであっても、蓉子の言葉であれば祥子は逆らうことが出来ない。
知っていた、由乃は知っていた――――――結果がこれだ。
ガックリと項垂れている由乃のことを尻目に、江利子は聖にじゃれ付かれている恭華のほうに振り返り、

「それでは恭華さん、ご一緒に剣道部へ参りましょう」

優雅で、勝利者だけに許された絶対的な微笑を浮かべて江利子は言葉を掛けた。

(俺はまだ何も言っていないんだがな…………まあ、いいか)

善意からの言葉と分かっていても、江利子の様子を見ているとどうしても裏があるのではないかと勘繰りたくなる。だが、蓉子も誘っていることだし取りあえず深く気にする必要は無いと判断して、恭華は立ち上がる。

「案内のほど、宜しくお願いします。一応、どこにあるかは知っているつもりなんですけどね」

少しはなれたところで未だに力なく項垂れている由乃と、少々敵愾心のこもった瞳で恭華のことを見ている祥子のことを意識的に無視しようとして、だが祥子の視線だけはどうしても無視できるものではないが、江利子に笑いかけるように頼んだ。


何故祥子はにらむのか。

(どうしてお姉さまはあの方にばかり優しくされるの?)

面倒見のよい姉の正確は理解していたが、それでも祥子の瞳は曇っていた。
嫉妬という名の炎によって。

思い返せば、まだ祥子は恭華のことをどのように受け入れればよいのか回答が出ていなかった。それでなくても、姉と恭華の絡み合うようなツーショットを見ているために、どうしても好意的に恭華のことを見ることができない。
なおかつ、彼女は蓉子以外では初めてといってもいい無条件に受け入れることの出来る妹とまで急接近しているのである。
心中複雑というほかない状態の祥子を攻めることの出来る人間はいなかった。

(お姉さま、どうしたんだろう)

祐巳は心配そうに祥子のことを見ていて、

(まったくもう、いつもどおり天邪鬼で人見知りが激しいんだから)

妹の性格にやきもきしている蓉子。


「さあ、行きましょう。早くしないと剣道部の練習が終わっちゃうわ」

言いだしっぺでもなければ、由乃を丸め込んだ江利子でもないものが楽しげに剣道場のほうを指差し宣言した。すぐそばにいる恭也の体に背中から覆いかぶさるようにしている姿はもう、主人に甘えたり遊んでもらったりする猫のようである。
傍らで微笑みながらたたずんでいる志摩子の姿がよりいっそう彼女の姿を愛玩動物をめでている風体に見えて仕方ない。志摩子自身はそんなことを考えているわけではないのだが。

「聖さん、少し離れてくれないと立てないですが」

「もーすこしー」

だらだらと弛緩し切った様子で聖は恭華に抱きついたままだ。
流石に力任せに振りほどけないので、成すがままになっている。
もっとも、聖自身があと少しといっているのだ、もう少ししたら開放してくれるだろうという希望的観測で恭華はいるわけだが。

(まあ、悪くないし――――な)

恭華は気がついていない。友人として頼られる、甘えられることを好意的に感じている自分の感覚が男性のそれというよりも女性の感覚に近いことに。
口元がゆるめられ、優しく微笑んでいるような表情の恭華。
慈愛に満ちた彼女の表情に思わず見とれながらも、自らを鼓舞し立ち上がるものがいた。

「ほら、聖。剣道場へ行くんでしょ、いつまでも恭華さんに迷惑掛けないの」

「えー、もうちょっと位いいじゃない。恭華さんってさー、抱き心地がいいんだよ、すっぽり収まる祐巳ちゃんと違って、こう抱っこしてると暖かくて良い匂いで安心できて。
……………………はぁーもうメロメロだー」

だらしなく締まらない表情でのたまう聖のことを蓉子は重たいため息を吐いて聞き流す。
抱きつかれ迷惑をこうむっているはずの恭華はというと、まあどうしようもないかな、といった感じのあいまいな表情を浮かべている。だが、彼女のそんな表情の中にも面倒だなとか鬱陶しいなといった負の表情は一切見えない。

あくまで聖に優しい彼女の姿を見ると、蓉子は少しだけイラついたような表情を一瞬だけ浮かべ聖の背後に回った。

「もう聖ッたら、立ちなさい!」

早く立って、と背後から聖の脇に腕を差し込み羽交い絞めにするように蓉子は立ち上がった。引っ張られるように聖も立ち上がり恭華からはがされる。
引っぺがされた聖は、残念そうな顔をして恭也のほうを見るがすぐに何か思い当たったのかニンマリとヤラしい笑みをうかべ顔の見えない蓉子にささやきかけるように問いかけた。

「もしかして蓉子さー、恭華さんのこと取られたみたいで嫉妬したの?」

更に『それとも、私がとられたみたいで嫉妬したのかな〜』などととぼけた様子で付け加える聖。図星を指されたのか、はたまたからかう様子の見て取れる聖に対して怒ったのか蓉子は顔を赤くしながら、

「黙って立ちなさい。さっさと剣道場に行くわよ」

有無を言わさず、先導し始める蓉子の後を付いていくように、聖が、そして山百合会の面々が薔薇の館を後にする。
最後尾に付く形で恭華も一緒になっていると、ちらちらと視線が絡み付いてくることに気が付く。

視線から感じられる感情は複雑だ。悪意とも嫉妬とも取れるような感じでもあるし、こちらのほうを窺っている雰囲気もある。いったい誰が――――――などと考える必要もない。
複雑そうな視線と、これまたなと表現してよいのか難しい女子生徒、小笠原祥子であった。

(敵視されている…………のか)

自身の中で問いかけながら恭華は彼女の視線の意味を分析する。
だが、恭華自身は敵視されるようなことをした覚えはない。それはそうだろう、自分の姉が甲斐甲斐しく世話を焼き、妹は自分の知らぬ間に恭華を慕うようになっているのだから。
人物像がよく掴めていなくとも、姉と周りの様子から見て少なくともよい人だと分かっていても生来の天邪鬼な気質が彼女にこういった態度をとらせてしまう。
要するに、悔しいのだいろいろな物がないまぜになって。

ところ変わって剣道場。
道場内は何時もとは違い、ざわざわとしており些か軽い空気が場を満たしていた。
何故このような状態になっているのか、それは――――

「皆さん頑張っているかしら?」
「妹の見学に来たの、よろしいでしょう?」
「見学に来ただけだから。そうそう、色々お願いされても困るからね」

紅・黄・白の三色の薔薇が、三者三様にたおやかな微笑を浮かべ取り囲むように騒いでいる女生徒たちを落ち着かせていた。
校内ではまさにアイドルやスターのように扱われている三薔薇様が揃い踏みしてあらわれたのだ。興奮するなというほうが難しい。
そんな彼女たちの様子を少し離れたところから見ていた恭華はしきりに感心したように呟いた。

「まるで別人みたいですね」

特に言動の8割ほどセクハラで責めてきた聖が大人の対応で下級生たちを落ち着かせたりなだめたりする様子を見ていると、恭華は思わず口走らずにはいられない。
彼女の独り言を聞いてしまったのか、近くにいた志摩子が申し訳なさそうに恭華の顔を見上げ、そして――――、

「あの、お姉さまが迷惑ばかりお掛けしまいまして申し訳ありません。
ですが、お願いです。お姉さまのことを嫌ったりしないでください」

懇願するような表情で、志摩子は恭華に願うように言葉を掛けていた。
未だ、三薔薇は剣道部員に囲まれており、こちらに気が付いている様子はない。
この瞬間を狙って、志摩子は恭華に声を掛けたのだろう。どのような意図があるのか、はっきりとはしないが。

「迷惑だなんて…………まあ、多少困りはしますがそこまで深刻なものでもありませんし。
なにより、聖さんにはお世話になっていますからね。嫌うわけがありません」

見上げているためだろうか、志摩子の目じりに涙が微かに溜まっているように見える。
彼女の様子を見て、恭華は小さく薄い笑みを浮かべながらそっと頭を優しく撫でる。
親が子供を撫でるような優しい手つきで、志摩子は瞳を細くし恭華の手に身をゆだねる。
優しい手つき、穏やかな表情、掛けられる思いやりの言葉。
ほぅ、と何処か恍惚とした表情になる志摩子のことを見て、恭華は慌てて手を引いた。

「す、すみません。断りもなく触れてしまって」

「い、いえ。恭華様が優しくしてくださったのが伝わりましたので」

「ですからそのように申し訳なさそうになさらないでください」とにっこりと微笑んで志摩子は恭華に頼んだ。
そんなやり取りをしていると、恭華は思わず未だに生徒たちに囲まれている聖のほうに目をやる。後ろめたさか、妹に触れてしまったことを気にしてなのか…………。
たまたまなのか、それともずっとこちらを見ていたのか、聖と恭華は目が合い――――、

『恭華さんの女殺し』

と唇が微かに動いた。
音には出していない、そして聖も恭華が読唇術など出来ると思っていない、あとでからかう材料にでもしようと思っているのだろう。彼女の一瞬浮かべた意味ありげな笑みがそれを如実に表していた。

(………………嫌な予感がする)

戦々恐々とした面持ちで恭華は聖の言葉を反芻していた。
何故に女殺しなのか、異性(今は同性だが)に対しての評価でそのように言われたことは一度たりとてない、恭華はない。………………余談として彼女の友人ならあるが。
せいぜいあって、鈍感、野暮天、鈍い等々あまり褒められた言葉ではない。

評価した聖の表情から薄ら寒いものを感じ、思わずため息を吐きそうになるが、ようやく騒ぎが収まり練習に戻り始めた剣道部員の間を縫うようにこちらに向かってくる女生徒が一人いる。

周りにいる剣道部員よりも頭一分背が高い。真剣な表情をしているためにどこか中性的でシャープな印象を与えるその女生徒は、三薔薇様の前まで来ると二三言葉を交わしたのちに江利子に伴われて恭華のほうへと来た。

「ご紹介遅れておりました、こちらが私の妹です」

「はじめまして、支倉令です」

江利子が少し自慢げに頬を緩ませ、女生徒を一歩前に出すように背中を押す。
覇気のある声色で、恭也に会釈しながら挨拶をするショートカットの女子生徒。
幾分硬い感じが見られるが、それでも精一杯の笑顔を浮かべ恭華に相対する姿はどこか健気で、好感が持てる雰囲気である。

もちろん、恭華は彼女、支倉令のそういったところを気に入っている様子だった。
相手が落ち着くよう、最大限リラックスし穏やかな表情で顔を合わせ自己紹介をする。

「ご丁寧にありがとうございます。先日こちらに転校してきました高町恭華です。宜しくお願いしますね、令さん」

小さく会釈を返しながら、恭華はそっと右手を差し出した。
少々女性としては珍しく、また今まで会ってきた山百合会のメンバーに対してははじめてアクションをとる恭華。
差し出された白く細い手を令は数瞬見つめ困惑してから、恐る恐る自身の右手を差し出し握った。

(暖かい…………)

握手したときの令の感想は、ただこの一言に尽きた。
恭華の手は令のより細く繊細な手や指をしているのに、どこか自分のよりも大きく暖かな印象を与えるのだ。ゆえに、令だけは山百合会の中で唯一といって良いほど恭華の隠している内部に気がついた。

「あの、恭華様――――――失礼ですがお尋ねしてもよろしいですか?」

「どうぞ。…………でも、もう少し軽く、いつもどおりに話してくださいね」

柔らかく女性らしい言葉遣いで令に答える
答え終えてから数瞬経ってから、恭華は自分の口にした言葉としゃべり方にゾゾッとした寒気のようなものを感じ自らを罵った。

(高町恭也、今自分がどのような言葉遣いをしたのか理解しているのか!!)

心に戒めようとするが、恭華は気がついていない。この学園の作り出すゆっくりとした空気と穏やかな時間と、自分を取り巻く女子生徒たちに感化され自分がどんどん精神的に女性寄りになっていることに。
表面的にはいつもどおりで、内面的には悶々としている恭也の様子に気づくことなく、令は普段と変わらない口調で、恭華にたずねて見たいことを口にする。

「その、恭華様は何かスポーツか武道でもしてたんですか?」

窺うようにして尋ねてくる令の姿を見て、恭也は考え込む。
本当のことを言うのか、それともごまかすのか……………。
困ったよう表情を曇らせて、薄い笑みを浮かべ恭華は答えることにした。

「ええ、我流で恥ずかしいのですが、剣を少々」

「そうだったんですか。納得しました」

「あら、何が納得できたの?」

ヒョイッと現れた蓉子の言葉を受け、令は戸惑いながら自分の中にある答えを話し出す。
『隙のない立ち振る舞いと均等の取れた体つきから何かをしていたのではないかと思いました』と。
令の話を聞くと、嬉しそうな顔をしながら蓉子が頷く。

「そうでしょう。私も恭華さんの歩く姿が綺麗だったから、何か習い事でもしてるんじゃないかと思って聞いたのよ」

嬉しそうにコロコロと笑いながら語る紅薔薇様。こんな様子の彼女は珍しいのか、令ものめずらしそうに見ていると、近くにいる祥子がこれまた複雑そうな顔をしていた。
剣道をしていると聞き、自分の身近にいる人物たちと同じことをしているのだと思い近しい印象を持ったというのに、すぐそばで親愛なる姉が楽しそうに笑っている。
親しくなれそうな、それでいて憎々しくなりそうな中間で思いが漂ってしまう。
だからこそ、こんなことを口走ったりしてしまったのだろう。

「あら、でしたら恭華様、一度令と試合をしてみてはいかがですか?」

「えっと、よろしいんですか?」

この言葉に真っ先に反応したのは、きっちりと剣道着に身を包みキリッとした姿の令であった。握手を交わした瞬間から、恭華の力量に興味を持ったのは瞳の奥に力強くまっすぐな光を宿しながらたずねている令の姿はとても純粋だ。
一方提案した祥子はというと、彼女の言葉はどこか憎まれ口に聞こえる。
だからだろうか、すぐ隣で真剣な面持ちをしている令のことを見ると、祥子は苦虫を噛み潰したような表情をしているのは。

「いえ、胴着もありませんし何より部外者が入ったりしたらお邪魔でしょう」

祥子の嫉妬交じりの言葉を真面目に受け取る恭華のことを見て、蓉子は困ったように小さく微笑み、祥子の背をポンと優しく叩いてやる。

(…………馬鹿な子ね)

ビクッ、体を硬直させ祥子は蓉子のほうを見る。
優しい、何もかもを受け入れてくれるような蓉子の微笑を前に、祥子は思わず目じりに涙をためる。ああ、姉に自分の醜いところを見られたのだ、と悲観の思いとそんな自分を受け入れてくれる姉の優しさとで板ばさみになる。

(なんて馬鹿なことしたんだろう)

心の中で大きな声を上げて祥子は泣く。コントロールしきれない自分の心が時として人を傷つけ、自らも傷つく。深く深く心の奥底で刻み付けて祥子は姉の微笑みに対し、自らも微笑むことで答えた。

「申し訳ありません、お姉さま」

しおらしい妹の姿を見ると、蓉子はそっと頭を撫でてやる。
手を上げる仕草に対して、祥子はぶたれるとでも思ったのか一瞬体を硬くする。
艶やかで長い黒髪を梳くように撫でる姉のことを思わず覗き見るように視線を向け、

「私に言っても仕方ないでしょ?ちゃんと恭華さんに謝りなさい」

「はい、そういたします」

優しく叱られた。
世界でたった一人の姉に諭されて、やっと祥子はまっすぐに恭華のことを見る。
視線の先には困った顔をしている恭華の姿があった。


「胴着でしたら、予備のものを更衣室においてあります」

興奮した顔をしている令と困り果てたような、どうしようか思案している恭華が見える。
いつの間にか二人の近くにいる江利子と聖があれこれといっている。
『胴着を借りたら良いんじゃないかしら、恭華さん』『へー、剣道やってるんだ、見てみたーい』などなどと包囲網を作って追い込む様子が見て取れる。
もはや逃げ場は無いと覚悟すると、恭華は心の中で重たいため息をひとつ吐いて、

(両手で久しくやっていない…………が、まあやるしかあるまい)

御神流でなく剣道をするとなると、どうしても感覚の違いで戸惑う。
やりたくはないなと思う反面――――至極真剣な表情をしている令の実力を恭華は気になり、己の中にある感情に従う。
令の言葉に頷き、恭華は道場内にある部室に向かった。
自分のロッカーから藍色の胴着を出して、すぐ傍らで所在無さ気にしている上級生の恭華に手渡した。

「もしかしたら、サイズが合わないかもしれませんが」

申し訳なさそうな顔をしながら令がそういう。恭華は小さく首を捻りながらその言葉の意味を考え問い返した。

「そうですね、少し自分のほうが身長が高いですが――――まあ、大丈夫じゃないですか」

「いえ、そうではなくて…………」

もじもじとした様子で、恭華のある一点を見てからすぐに視線をあちこちに向けてごまかそうとする令。令がどこを見てしまったのか――――――――女性の象徴とも言える胸元を確認するように見てしまったのだ。
見てみてから、自分の胸に手を当てるようにしてみる。
スカスカとした手ごたえしか返ってこないそれに、嘆きたくなるような気持ちで令はため息をひとつ吐く。

「あー…………まあ、着替えますので、先に戻っていてもらえますか?」

なんと返答してよいのやら困惑し、とりあえず恭華は先送りにすることで問題を解決をしようとする。下手に慰めの言葉を書けたりすれば逆効果の場合もある。特にこの体になってから彼女は嫌というほどそれを知る羽目になっているのだ。

(はぁ…………わずらわしいな、これは)

自分の豊満な胸元に視線を落として、ため息を吐きたくなる。
いま、更衣室には誰もいないのだから吐いても良いはずなのだが、あえて飲み込むことでその煩わしさを見とめたくなかったのだろうか。
手馴れた様子でさっさと胴着に着替え終え、道場に戻ると異様な雰囲気になっていた
道場は静まり返り、部員や見学していた生徒たちが試合面を取り囲むようにしている。
もちろん、その中には一緒に剣道場まで来た山百合会の面々も見える。

「まさか、あなたが剣道をしているなんて思わなかったわ」

「あなたは、山村先生」

声を掛けてきた人物のこと見ると、恭華は驚いた表情をした。転校初日、右も左も分からなかった自分のことを目的地まで送ってくれた人だ、忘れるわけもない。
上村は嬉しそうに目を細めながらも、剣道場の様子をみて苦笑した。

「ごめんなさいね、高町さん。生徒たちが興味津々になったみたいで、こんなふうになってしまって」

謝りながら、『本当は練習中にしたかったのだけれど』と付け加え、恭也に現状を説明してくれた。
『三薔薇様方が連れてきた人物が、黄薔薇のつぼみ様と練習とはいえ試合をする』
周りにいた生徒たちがあれよあれよと伝言ゲームをすると、ひとつのうねりのような形となり、試合場を形作ってしまった、すなわり、恭華の目に映る人垣のある道場そのものだ。

もう一人の主役である令はというと、道場の片隅で防具を身に付け静かに待っていた。
周りの生徒たちが生み出している雑音は一切耳に入っていないのか、穏やかで静かに集中力を高めている様は背に緊張感を走らせるには十分であり、

(少々本気を出さないといけないか…………)

貸し与えられた防具を付けながら恭華は気持ちを引き締めた。
見事なコンセントレーションだ、遠目から見ていても伝わる緊張感。
互いに防具を身に付け終え、相対すると周りから強烈な音の波が訪れた。
黄色い声援、と表現すればよいのだろうがあまりに多すぎてもはや声ではなく音と化している。

『令ちゃーん、頑張ってー』

『令、負けるんじゃないわよ』

『あらあら、黄薔薇ファミリーは当然か。じゃあ、私は恭華さんを応援するよ』

山百合会の面々の一部も声に出して声援を送っている。
由乃、江利子、聖…………ほかの面々は、固唾を呑んで見守っている。内心で令の応援をしているのか、それとも恭華の剣道の腕前に期待しているのか分からないが。

道場中央、令と恭華はお互いに竹刀向け合い立ち上がる。
傍らにいる主審を務める山村先生が、小さく鋭く言った。

『はじめッ!』

合図とともに飛び出したのは、令であった。
疾風迅雷を思わせる鋭い連撃を放つ。『小手』『面』と鮮やかに滑らかに打ち込む。
連綿の気合のこもった令の叫びを耳にしながら、恭華は冷静に、確実にその打突をいなす。
小手に対しては打ち払うように、面に対しては切り払うように流すと互いに距離をとった。
たった二合の打ち合いで令は悟った。少なくとも、恭華の腕前が自分よりも上であることを。だからこそ、戦術を変える必要性があった。
一方、恭華もまた内心舌を巻いていた。
鋭い打突もそうだが、一瞬にして間合いを詰める足運び。年月を掛けて修練してきた確かなもの。ゆえに感じる、理解する。彼女が剣道を愛し、地道に努力してきたことを。

(いい選手だ)

決定打にならず互いに距離をとっていると、令は攻めあぐねているのか小技を出してはすぐに離れるを繰り返す。手がないゆえに攻撃が小さくなっているのか、はたまた何か奥の手があるのか。

(確かめてみるか…………)

恭華はすばやく振りかぶると、令に面打ちをした。
鋭く早い面打ちであるが、それが飛んでくると令の表情が変化した。
面打ちを阻止すべく間合いをつめ、自らの鍔元を恭華に押し付ける。
肉薄する鍔迫り合いの状態が生まれる。令はこの状況になることを待ち望んでいた。

純粋な技量では恭華にかなわない。ゆえに、自らの得手とするものを勝負に使えるようにするしかない。そう、令が待っていたのは純粋な力による勝負。
あまり嬉しくないミスター・リリアンの称号も伊達ではないということだ。
ギリギリと竹刀がきしむ音がする。
自らの膂力を全開にして恭華を押しつぶそうとする、だというのに、

「ウソでしょ…………」

どう見ても己よりも細い肩や腕、腰付きをしている恭華のほうが徐々に力技で圧倒しているのである。

剣道場を取り囲むようにしている女性とたちからも悲鳴のような声が上がる。
自分たちのもっとも期待し、信頼している黄薔薇様のつぼみが負けている。
少しでも剣道を理解している者すべてがそう思ってしまった。
失礼な話である、まだ両者は力の限り闘っているというのに。

崩れた均衡を何とか立て直そうと、令は限界以上の力を込めようとした。
力を込めようとした一瞬、力が緩んだわけでもない瞬間、恭華は突き放すように力尽くで令を押し飛ばした。
次の瞬間、恭華の打突が令の面目掛けて飛んでくる。

決定打、に思われた。少なくとも、令のとった戦術を理解したものたちは。
己の作りたかった状況を覆され上を行かれたのだ。放心してしまうのは無理からぬこと。
そう思っていたのに、理解したのに、支倉令はその上を行った。

呆けることも、油断することもなかった令は何とかその面打ちを流すと距離をとる。
正直に言ってもはやお手上げである。
慢心や油断をしてくれればまだ小さくとも勝利するための綻びを見つけ出すことも出来るかもしれないが、相対している令は分かってしまった。

(ぜんぜん油断なんてない)

鋭いまなざしで令のことを油断なく計っている恭華の姿に、慢心や油断など一切なかった。
歯噛みする、圧倒的な実力になすすべのない自分が悔しい。彼女の心が表れているのか、憎々しげに竹刀を握る手に力がこもっていた。


正直に言えば、恭華は内心で感心しっぱなしであった。
力勝負に持ち込むための周到な罠。己の得手で敗北をしても放心しない精神力。
この年齢で剣道を収めているもので、ここまで強い女子選手はなかなかいないだろう。
脳裏でとある友人のことを思い出しながら、恭華は気持ちを引き締めた。

(綾なら、嬉々としてこの子のことを鍛えるかもしれないな)

緩みそうになる口元を引き締めながら、恭華は風ヶ丘においてきた友人のことを思う。
また、友人のことを考えつつも、もうひとつのことを決意する。
本気を出そう、と。

これだけの剣道選手だ、敗北も己の技を見ることも勉強になるだろう。
心の中で決意を固めると、恭華は竹刀の先を小さく揺らした。
ゆれる剣先に令は油断なく構える。
いい選手だ、と再び恭華は思う。
敗北が見え隠れしているというのに、集中力を心を折ることなく最後まで戦い抜こうとするその姿勢が精神が尊く好感が持てる。
唇をゆがませる、楽しげに嬉しげに。
表情を変えた瞬間、恭華は渾身突きを放った。


『いっぽん!!それまで』

周りから落ち込む声と、感嘆の声があちこちから沸き起こる。
もちろん、落ち込む声は黄薔薇様のつぼみが負けたことに対してであり、感嘆の声は恭華の実力と最後の最後まであきらめず戦い抜いた令へのものであった。


「お疲れ様でした、恭華様。お強いんですね」

小手と面を外しながら、令が頭を下げ恭華に言葉を掛けてくる。
もちろん、恭華もまた面と小手を外して彼女の言葉に受け答えをする。
頭に巻いていた手ぬぐいを取ると、ハラハラと舞い散るように髪が解かれる。
汗ばみ上気した恭華の頬に、いくつかの黒髪が張り付く。
試合を終えたばかりで、何処か疲れた様子でいる恭華の姿は、解かれしっとりとぬれた黒髪と相まって妖艶に見えた。

「ええ、お疲れ様です。それなりに時間を掛けて練習してきましたからね。
それよりも、令さんこそ強いですね。剣道部にいる友人を思い出しましたよ」

試合を終えたばかりでキリリッとした顔で、恭華は言葉を選びながら答えた。
負けたすぐ後だ、下手なことを言えば酷く落ち込んでしまうだろう。
だが、そんな心配は目の前にいる少女には関係ないかもしれない。
真っ直ぐで、ひたむきで。まだ会って2時間も経っていないが剣をあわせることで分かることは幾らでもある。
だから、だからこそ話しかけてしまう、数年来付き合いのあるひとのように。

「ありがとうございます。あの友人とはどのような方で――――」

問いかけようとしていた。令は剣道をしているという恭華の友人が気になり、問いかけようとしていたというのに、その言葉はあっけなく阻まれてしまう。
黄色い声、黄色く甲高い声と優しく労わるような声だった。

「令ちゃん!なによ、あれだけ粘ってあっさり負けちゃうなんて、なんだったて言うのよアレ!!」

「お疲れ様、令。確かに由乃ちゃんの言うことももっともだけれど、最後まであきらめない姿、私はこんな妹を持って誇らしいわ」

ヒャンヒャンとなく犬のように矢継ぎ早に令に言葉を飛ばしている由乃を前にすると心底困った顔をしている令の姿があった。
一方、いとしい妹に無視されているというのに別段気にした様子のない江利子はすぐ傍らにいる恭華に向き直る。どうやら、興味のほうが優先されたらしい。

「そうそう、私も気になるわね。最後の一手、アレは何でしたの?」

「あー、それ私も聞きたいなー」

恭華の後ろから声がする、いつの間にかやってきた山百合会の面々が取り囲み、聖が恭華の右腕に飛びついて尋ねていたのだ。
ニマッとチェシャ猫のような笑みを浮かべながら聖がいて、しきりに感心しているような祥子がいて、恭華の意外な一面を知って驚愕のか熱っぽい瞳をした蓉子がいる。
祐巳が、志摩子が、そんな上級生たちの後ろに隠れるように…………しかし、畏敬の念のこもった視線を恭華に向けていた。

(ふぅ…………まあ、これならいいか)

小さく苦笑しなら思う。よそよそしくなってしまうのではないか、そんな心配をしていたのだ。だが、どうだろう。聖はつい先ほどまでと変わらず引っ付いてくる。
祥子にいたっては逆に先ほどまでの険悪な感じが抜け落ちている。

「はい、恭華さん。私のタオルでよかったら使って」

いつの間にか小さなタオルを差し出している蓉子の姿があった。
恭華はありがたくタオルを受け取り、汗ばんだ顔をぬぐう。さっぱりしてひと心地ついたのかリラックスした穏やかな表情になる。

「あー、汗拭いちゃったの?もう少しそのままでいてくれればよかったのに」

不満たらたらな声。振り返るとそこには面白くなさそうな顔をした聖の姿があった。
何故汗を拭くのがいけないのか、その理由は分からないがすぐさま彼女の親友兼お目付け役のようなポジションにある蓉子が大きくため息を吐きながら、

「あのね、聖。いつまでも汗かいたままだと恭華さんが風邪引くでしょ」

「そんなの私だって分かってるよ。そうじゃなくて、汗でぬれた恭華さんがセクシーだったからもう少し眺めたかったんだってば」

あいた口がふさがらない、聖の回答に思わず蓉子は頭が痛くなる。
みもふたもない話を聞いていると、恭華もまた引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
少し離れたところから「あー、それ私も思った」なんて、援護射撃まで飛んでくるのだからどうしようもない。離れた位置、未だに妹に詰問されている令と、そんな妹たちのことを生暖かく楽しげに見守っている江利子の言葉だった。


「蓉子はさーそう思ったりしない?」

「は?」

「だからさ、長い黒髪がぬれて艶やかな恭華さんのこと、色っぽいって思ったりしない?」

いきなりの質問であった。
蓉子の背後に回りこみ、ポンと肩を叩きながら質問をする聖。よく見ると、聖の顔は何処か嫣然とした笑みが見え隠れする。いきなりの問いかけに反応し切れていない蓉子の体を、強引に恭華の後姿が見えるようにする。

まとめ上げていた髪を解き一束に束ねられている恭華の姿が見える。
高く結い上げられているそれは、ポニーテールであり、白く淡い色香を漂わせるうなじが露になっていた。

「…………」

「祥子でも思ったけどさ、濡れた長い黒髪って厭らしいくらい綺麗だよね」

「ちょっと、変な言い方しないでくれる。それと、妹のことも恭華さんのことも変な目で見るな、この親父」

やんややんやと話す二人の声はもちろん周りにいる山百合会のメンバーにも届き、恭華にも届いた。祥子は顔全体を真っ赤にしていて、そんな姉の姿に祐巳はおろおろ。志摩子も珍しく困ったように苦笑しており、どうしてよいのか分からないでいるようだ。
だが、彼女は違う。このリリアン女学園に転校してきたばかりにして蓉子、聖とも親密な関係となり、あまつさえミスター・リリアンの称号を持つ令に剣道で勝ってしまった彼女は。

「祥子さんの髪も綺麗ですが、蓉子さんの髪も美しいと思いますよ」

「な、何を言ってるんですか!!?」「な、何を仰てるんですか!!?」

似たもの姉妹、反応までそっくりである。
二人の姿をおかしそうに笑いながら、聖は恭也の右腕に移って抱きつく。
ぶらりと体を預けるようにしながら下から見上げるように覗き込み、恭華に問いかけた。
聖はキシシッと笑っており、その表情は何処か悪戯っぽい猫の表情に見える。

「恭華さん、恭華さん。蓉子は具体的にどういったところが綺麗?」

「うーん、やはり襟元で切りそろえられ髪…………ですね。鎖骨からうなじのラインが綺麗ですし」

女性らしい首まわりを褒めてみると、蓉子は顔といわず首まで真っ赤かになり腰を抜かす。
一方、問いかけた聖は軽く口笛を鳴らしながら口元の笑みが深くなる。

「恭華さんってばエローイ、すごくエッチだよ、それ」

クスクスと小さく笑いながら楽しそうにしている聖。
言葉どおり、卑猥だったのかどうか分からなく、褒めた相手のほうを見ると気恥ずかしそうに顔をそらしている。
少し落ち込む、自分の言葉が意外とセクハラになっていることに、だ。
セクハラ…………海鳴りで散々世話にもなったが、散々迷惑をこうむった銀髪悪魔とメガネのセクハラ魔人の二人組みを思い出す。

(俺は意外とあの二人と近いものがあったのか)

ガックリと恭華は項垂れる。別段、そこまでショックを受けることもないのだが。
事実、蓉子は褒められたことが嬉しくて赤くなっているのだし(ただし、内容が少しアダルトであったことは衝撃的であるようだ)、聖にいたっては自分とよく似たことをしてくれたので嬉しくもあり、からかいたくもあっただけだ。

だが、落ち込んでいる恭華のそばに来て、とあることを尋ねる少女がいた。

「あの、恭華様。黄薔薇様のつぼみと試合の最後に使った突き。あれは一体何ですか?」

会話の流れを変え落ち込んでいる恭華のことを助けてあげようというものなのか。志摩子が令との試合であった光景を思い返すように尋ねてきた。
何の変哲もないただの突き。だというのに令は無防備…………いな、防御して抑えようとしたのに打突が入っていた。剣道を知っているものなら誰もが疑問に思う光景だった。

「あの、それ私にも教えてください!!」

遠く離れた場所から、声が届く。声の主は先ほど恭華と試合をした令のものだった。
グルルッと唸り声を上げながら追い詰める由乃によって道場の隅へと追い詰められている。二人の様子にもはや飽きてしまったのか、アレだけ楽しんで二人の様子を眺めていた江利子も恭華たちのほうへ来る。

山百合会の面々がそろうと、恭華は小さく一呼吸する。
ため息の代わりの深呼吸、自分を落ち着かせなおかつ余計なことまで喋らないようにする。
剣道部の面々はすでに練習に戻っており、山百合会の面々は見学に訪れていた生徒たちによって囲まれていた。
流石にこの状況では話せないのか、恭華は困った表情をして聖を、蓉子を見る。
二人とも示し合わせたように首を横に降る。
まあ仕方ないか、と恭華は頷き納得すると突然後ろから声を掛けられた。
振り返ると、そこには胴着を着込んだ数人の女子生徒たちがいる。

「あの、恭華様。まだお時間があれば私たちの練習を見ていただけませんか?」

女の子のひとりが恭華に進み出て、そう申し込む。
快活そうなその娘は、真摯な姿勢で頼み込むので恭華もまた思わず頷いてしまった。

「…………自分のは、あくまで我流ですよ?あまり参考なるか分かりませんが、それでもいいですか?」

「はい、かまいません!!宜しくお願いします」

小さく困った顔をしながら恭華は頷く。
彼女の答えを見ると、剣道部員の女の子はそろって黄色い声を上げる。
そんなに嬉しいのだろうか、小首を傾げながら恭華は彼女たちに簡単な指導をするために道場のほうへと向かった。
恭華の背を見送る山百合会の面々が複雑そうな顔をしているのに気づかないで。
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